私見 =幕張はこの様なところです=
 2016年 記
 
 幕張周辺部を俯瞰すると凡そ下図のように区分されるかと思います。
旧海岸線より下部が1960年台に遠浅の海を埋め立てて造成された所で、
美浜区(一部花見川区)です。A区画の上部ライン上に深緑の帯とグレーの
道路状のものが横切っているのが確認できますが それが東関東自動車道で
其処から海側 浜田川と花見川に挟まれた場所が”幕張新都心”と呼ばれて
いるエリアになります。
新都心と称されているように都市計画に基づき用途別に区画整理され 凡そ
A区画(ビジネス街)B区画(商業施設・宿泊施設・公園・海岸)C区画
(文教施設・住居地区)に区分けされています。
旧海岸線より上部が元から在った幕張と武石の町です、下の俯瞰写真で解る
ように上部の台地と旧海岸線に挟まれるように民家が密集しているのがみて
とれます。幕張周辺部では貝塚等の遺跡が多く散見され海や河川の恵みを
受け古くから人が住み暮らしていたことが知られています。
また中世(日本史上)鎌倉幕府成立に大いに貢献した千葉常胤の三男 胤盛
(武石三郎)が武石地域=(花見川区武石)を、四男 胤信(大須賀四郎)
が大須賀庄本郷=(幕張町3町目付近)を所領し、以降 代を重ね 戦国時代
後期まで千葉氏一族の支配下にあり、その影響は点在する社寺やお祭りに
色濃く残っています。
 江戸時代は奉行所与力の知行地となりサッマイモの試作地としても知られ、
幕張台地では芋の他人参の栽培等 近年まで盛んに営まれていました。
1894年(明治27年)に総武鉄道(現JR)開業にともない他地域に
先駆け幕張駅が出来るも然程開けず、また辺境地?の為か特筆すべき事柄
も少なく、台地上での畑作・花見川周辺低地部での稲作や沿岸部でのり養殖・
アサリ採集・潮干狩り業等の漁労・農労を営む者及び近隣産業就労者が住ま
いし、1960年台の埋め立てを迎え発展的変貌をみずまま今日に至ったもの
と推測されます。
1987年大阪から貝殻交じりの埋立地に転居し、2016年の今日まで新都
心地域の変貌振りを観てきた者にとって旧幕張地域の旧態依然とした様子
は歯がゆくもあり好ましくもあります。

<補足> *取材エリアは町区域の一部分です。
白線囲みの(ア)の区画は、幕張の古き町並みが色濃く残っている所として
写真取材したエリアです。
緑線囲みの(イ)の区画は、武石台地の取材エリアです。

                        
 
 
 
新都心外周部 上の位置からのスナップです。(撮影2016年2月) 
 
     
① 国道14号 旧海岸線はこの付近と言われています。   ③ 船溜跡地(魚業権放棄の碑) 
     
② 浜田川    ④ 花見川 
     
浜田川河口から新都心を望む    花見川河口から新都心を望む 
     
 
瑞穂の地より幕張方面を望む「遠方より新都心・幕張・武石の位置順」
花見川を隔てて手前側が瑞穂(左端の遠方部分は浪花町・検見川)
 
 
 
⑦ 花見川サイクリングロードから武石台地(木立の向こう側)を望む  
 
  新都心(A)ビジネス街のスナップ  
   
  海ヘリの町並みがのこる周辺スナップ  
   
  武石台地周辺部スナップ  
   
 

 
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