幕張郊外より遠望、高層ビルの手前にあるマンション群のラインが旧海岸線
の辺りです。高層ビルの右端の建物の下低層建物の陰あたりにJR幕張駅が
あります。写真右端の小山が”堂の山”です。(写真2019年9月)

 
海へりの町並みが残る幕張5~1丁目はこの様な所です。(2016年掲載) 
 
         
     
2016年2月のJR総武線幕張駅周辺の様子です。

駅の開業は1894年(明治27年)、この間の年月を考えるともう少し
駅周辺が開けていてもよさそうと不思議に思われます。
駅舎の二階から駅前通り商店街越しに新都心のビルが遠望できます、新旧
のコントラストが”幕張”らしさ?・・・かも知れませんね。
 

     
         
         

国道14号線から分岐する形で県道57号線が走っています、その北側(陸側)
に並行するように落ち着いた
民家が建ち並ぶ町並み(上部左の写真)がありま
す。町並み写真の奥の木立の向こうに”堂の山”がちらっと
見えています、また
突き当たりを右に曲がれば”子守神社”、左に曲がれば”金比羅神社”に行き
つきます。

この辺りが過日の幕張村落を代表する町並みと云えるのかどうか分かりません
が他地区に比較し趣ある民家
が多く落ち着いた印象が感じられます。また其処
此処にある路地は町並みから57号線を抜け14号線(旧海岸
へり)へと直線状
になだらかに下り、過日の漁労者の往来の様が偲ばされます。
 
 
       

二丁目にある”金比羅神社”、金比羅さんは漁労者の守り神と云われています。
大きな石灯篭が昔の幕張の繁栄振りを物語っているようです。
灯篭から続く石畳を進み石段を登ると境内に、そこは金比羅神社の名に相応し
くない荒れ果て様でした。
1960年台に始まる埋め立てやそれにともなう漁業権放棄等による結果なので
しょうか?これまた今日の幕張を物語る断片の一つと言えます。
 
 
         

幕張の鎮守さま”子守神社”(素加天王神社)。
孫の息災と家内安全を願い 我が家の神棚にも”子守神社”のお札を
納めさせていただいています。
 
 
         

前出の町並みの奥 木々に覆われた小高い場所、ここは昔大日如来坐像を
祭る”大日堂”が在ったところから”堂の山”と呼ばれています。
小山の天辺に千葉一族”馬加康胤”の首塚と伝わる五輪の塔があり、その裏
少し下がった所に”道祖神社”(上写真右端)があります。
この”堂の山”は立地・地形的から後背地にある”馬加城”の砦であったとする
説もあります、日本中世史に興味のある方にとってはそそられる場所でもあり
ますね。
また埋め立て前の”堂の山”周辺部は稲作も出来ない湿地帯であったそうです、
海岸べりに突き出した小山 満潮になれば小山の回りの凹んだ窪地に海水が
浸水してくる様が想像されます
 
 
         

家のうらが海で、いつも強い風がふいていて磯臭かった・・・」
 

遠き昔の幕張の面影は薄まり消え往こうとしています、それでも目を凝らし
感性を研ぎ澄ませば残影の断片は其処かしこに・・・。
 
 
         

旧海側の町並みの陸側(幕張3・4丁目の一部)の今日の様子です。

総武線・京成線の線路両沿いにビッシリと家が建ち並んでいます、
この辺りは人参や芋の畑が広がっていた
そうですが”埋め立て”
開始と同時期に宅地へ転用開発され今日に至っています。

 
上右端写真の遠方 四角い建物付近に”馬加城”があったと伝えら
れています。
 
 
 
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