(注記)このページは2003年に掲載され、2019年にリニューアルされたものです。
 
 
  私達の故郷 八尾市久宝寺を紹介します

 八尾は、歴史ロマンあふれる処です。
点在する遺跡から、弥生中期の土器が発見され市の東、高安山の
麓には有力豪族達の古墳が群集している様が見られます。

大和朝廷後期、物部守屋と蘇我馬子・聖徳太子の連合軍が覇権を
争い激しく戦った所もここ八尾であります。太子堂・勝軍寺・渋川
に史跡が散見されます。
叉聖徳太子の母堂の生家や、有名な?弓削道鏡所縁の弓削もここ
八尾にあります。
八尾は、奈良飛鳥から大阪湾 ”難波宮”を結ぶ街道 奈良街道・
十三街道に隣接する重要な地であつた事が伺い知れます。


近世に入り壬申の乱・南北朝の争い・応仁の乱等、幾たびの戦火に
も巻き込まれています。
豊臣氏が滅んだ大阪夏の陣では、豊臣方の長宗我部軍と徳川方の
藤堂軍が激突したのが常光寺周辺でありました。
私達の母校”久宝寺小学校”の直ぐ傍に 長宗我部盛親公 ”物見の
松”の記念碑が立てられていました、子供心に何故こんな所にと疑問
を感じていましたが数百メートル先に小さな長瀬川があり300年程前
は大和川の本流が流れ川幅も 2百~3百メートルあつたと云われて
おりおそらく土手であったであろうこの場所の、松に登り対岸から
寄せてくる藤堂軍の様子を見たものと推測されます。

因みに、大和川についてですが現在の川は国分付近より西方に流れ
堺市をへて大阪湾に注いでいますが、300年前までは、国分付近から
河内平野を北流し寝屋川に合流し、西に転じ淀川と合流し大阪湾に
注いでいた天井川でした。
この”古大和川”が八尾を横断していた本流の場所が現在の長瀬川
の川筋となって残っています。今では、見る影も無い”古大和川”で
すが天井川故頻繁に洪水を引きおこし、そのため中勘兵衛翁他に
より川筋付替え工事が行われて現在に至っております。


 さて、私達が生れた久宝寺について少し触れたいと思います。

久宝寺の由来は、聖徳太子建立の久宝寺(廃寺)だと云われていま
す。
この久宝寺、戦国時代に浄土真宗本願寺派の寺院 顕聖寺を中心
に整備され寺内町として発達してきました。

顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもつ立派なお寺です、
私や仲間の遊び場の一つでよく悪戯をしたものです、まあ罰も当らず
今日までこられたのは親鸞聖人の「悪人をもて往生とぐ、いわんや」
のお陰でしょうか?その当時はお寺全体が寂れていたような記憶が
あります、お寺の周囲の土塀(内が人が通れる)の崩れた所より出入
りしチヤンバラごっこをしたり、お寺の左側に残っていた土塁で鬼ご
っこをしたり、縁台で昼寝したり楽しい思い出が一杯あります。


その当時の思い出として今でも鮮明に思い出されるものとして、お逮
夜市 があります。
久宝寺御坊さん(顕証寺)から八尾御坊さん(大信寺)にいたる沿道
に物凄い数の露店が並びお祭り以上の人が犇きそれはそれは賑や
かな光景でありました、様々な日常の品物が商われていたのでしょ
うが子供の私にとっては、人びとのお尻と足の間から観る鋸を売る
おじさんの手さばきや口上、焼餅を売るおばさんの団扇捌きや焼け
る匂いに興奮したものです、おそらく何時までもあの情景は忘れない
と思います。

叉、夏祭りにはこの沿道に布団太鼓が ドン・ドデドン・ドデ・ドン
と勇壮な太鼓を響かせ練り歩きます。
泉南地区のダンジリや東京下町の神輿とまた違った趣ある河内然と
したもので好いものですよ。


私達の故郷、八尾久宝寺は太陽は山の向こう側から昇り大阪湾の
方向に沈みます。
小学校3年の頃でしたか、顕証寺裏の 許麻神社外れより左に山を
見て田んぼの畦道を当て所なく歩き、鉄道を超え右に山を見つつ戻っ
てくる冒険を何回もした事があります、回を重ね到達距離が広がって
いく喜びは何物にもかえがたいものでした、叉山を右に見つつ長瀬川
沿いに歩き 左に山を見て戻る この少年期が今の私の人格の元に
なっているのではとこの文を考えながらふと思いつきました。


この様な私達の故郷 ”八尾” を、私達二人の善き先輩である田井
一男氏の作品をお借りしまして紹介させていただきます。
この試みに快くお受けくださった作者 田井一男氏、及びデーターを
提供していただいた、彩美社奥田明美氏にこの場をお借りしまして
お礼申し上げます。
 
 
 
  扉ページに戻る      田井一男河内50景作品集を開く